犬山祭
犬山祭は江戸時代、寛永12年(1635年)から続く針綱神社の祭礼です。
毎年4月の第一土曜とその翌日の日曜日の2日間で執り行われ、13輌の車山と3つの練り物の全部で16町内が祭に参列しています。現存する13輌の車山は、昭和39年(1964年)に愛知県有形民俗文化財に指定され、また犬山祭の車山行事は平成18年(2006年)に国の重要無形民俗文化財に指定されています。その後、平成28年(2016年)12月には「ユネスコ無形文化遺産」にも登録されました。
宵祭り
祭の前日の夕刻、明日の祭に向けて準備を終えた各々の町内が、宵の城下町の各所でお囃子の演奏練習や催しもの、車山蔵開放などを行い、祭の前日の夜を賑やかし、翌日を待ち焦がれます。
試楽祭
「本楽祭」の前日の初日を「試楽祭」と言います。
朝方より、城下町に点在する13町内の車山が各々の町内を出発します。車山の絢爛さに見劣ることのない金糸銀糸で彩られた襦袢で着飾った稚児達が太鼓を叩き、若者たちがお囃子を勇壮に奏でます。その音色にのせて自町内を練り歩いた後に、針綱神社へと向かいます。
集結した13の町内は、順番にそれぞれのからくり演目をその場で披露※します。
夕暮れになると車山は、万燈の提灯を纏い、夜の城下町をお囃子とともに練り歩きます。朝から夜まで一日かけてお囃子と共に町内、城下町を練り歩き清め沈めたのち、翌日に控えた「本楽祭」にのぞみます。
※披露=町や観覧者に正対して行う演技。
本楽祭
「試楽祭」の翌日である「本楽祭」。
朝方、13町内の車山と3町内の練り物は自町内を出発し、針綱神社に集結します。
犬山城と、針綱神社を背景に、祭礼順に整列した車山と練り物の絵巻は圧巻です。16町内は、祭礼順に針綱神社へとからくり奉納※、練り物を奉納し、奉納を終えた町内から順次城下町へと繰り出します。車山は、城下町の北組(6輌)と南組(7輌)の2手に分かれ、それぞれの集結地へと移動していきます。
16町内全ての奉納が終わると、針綱神社の御神体を乗せた御神輿の渡御が始まります。
その年の厄年と還暦を迎えた氏子が神輿を担ぎ、城下町に点在する針綱神社の元宮と御旅所へと渡御します。
御神輿が通過する町々は、低頭し一行をお出迎えします。
日が暮れ始めると万燈の提灯のロウソク一本一本に灯りがともり、日も沈み夜になると北組(6輌)と南組(7輌)は、それぞれの集結地より夜車山が始まります。普段は闇夜の犬山城下町もこの日ばかりはと、夜車山に照らされた町が橙色に染まり、一層賑やかになると2日間に及ぶ人々の想いをのせた祭は最高潮に達します。一頻りの後、ロウソクの灯火が尽き出す頃になると、犬山祭は千秋楽を迎えます。
※奉納=針綱神社に正対して行う演技。
犬山祭の歴史
祭の起源は、寛永12年(1635年)まで遡ります。当初は、下本町と、魚屋町の2町内がそれぞれ「馬の塔」と「茶摘み」の練り物を出して参列したとされています。当時の祭礼日は、針綱神社の最初の遷座日 である旧暦8月28日を「本楽祭」としていました。
開始から6年後の寛永18年(1641年)には、下本町が練り物から車山に変え参列します。その時すでに人形からくりを奉納していたと伝えられています。その後、慶安3年(1650年)時の城主成瀬正虎公の御沙汰によって祭が奨励され次々に城下の町内が参列し、江戸中期までには今の犬山祭の原型がほぼできあがっていったとされています。
下動画の「白山針綱神社大神宮祭礼行粧絵巻」は江戸時代の寛政7年(1817年)に出されたもので、この当時はまだ車山が13輌揃っておらず、練り物で参列している町内や、町名がまだ昔の町名でしたり、今は参列していない町内も描かれています。祭礼時に長は、帯刀も許されており城主と町衆の関係は良好で、そして車山の装飾や練り物の飾り、からくり人形など、江戸時代の文化の繁栄を映すもので、その行列は現代と変わらずすでに豪華絢爛であったことが伺えます。
明治になると、廃藩置県により現在の町名となり、暦も新暦となっていきました。
激動の世間の情勢の変化とともに、明治31年(1898年)より8月に行われていた祭は、4月に時期を変更いたしました。改変当初、日にちは遷座日のままで、4月27日が「試楽祭」4月28日「本楽祭」でしたが、人々の生活が変革した時代の流れとともに数度の改変を受けて、現代の4月の第一土曜日とその翌日の日曜日となりました。
白山針綱神社大神宮祭礼行粧絵巻
寛永12年(1635)に始まった犬山祭の形態が幾度の変遷を経て、絵巻に描かれている18世紀後半には、ほぼ現在の祭の形態であることがわかります。ぜひご覧ください。(犬山市文化財指定・個人蔵 / 寛政7年(1795)製)